岩戸山古墳がつくられ続けたのはなぜ?~古墳時代の支配者と非支配者の関係を考える授業~

中2歴史

古墳時代とは

古墳時代とは、日本の歴史における弥生時代に続く考古学上の時期区分であり、前方後円墳に代表される古墳が盛んに造られた時代、3世紀中頃から7世紀末を指します

古墳時代の特徴は、前方後円墳の造営の隆盛です

前方後円墳は、前方に細長い方形の部分、後方に円形の部分を持つ墳丘の形状をした古墳です

古墳時代前期には、畿内地方を中心に前方後円墳が造られ始め、後期には全国に広がっていきました

古墳時代の政治体制は、ヤマト王権の成立と発展によって特徴づけられます

ヤマト王権は、現在の奈良県を中心とする地域を拠点に、徐々に勢力を拡大していきました

古墳時代後期には、ヤマト王権の支配が全国に及ぶようになり、日本の最初の統一国家が成立しました

古墳時代の文化は、大陸からの影響を受けて大きく発展しました

大陸から伝わった青銅器や鉄器は、農業や技術の発展に大きく貢献しました

また、大陸の文化を取り入れた新しい葬送儀礼や芸術も発展しました

巨大古墳からわかること:多くの人を動かす権力者がいたこと

巨大古墳は、その大きさや豪華さから、当時の権力者の権威や支配力を示すものでした

そのため、巨大古墳の存在は、多くの人を動かす権力者がいたことを示す重要な証拠と言えます

巨大古墳の造営には、膨大な労力と資源が必要でした

墳丘の土砂を運ぶには、多くの人々の力を必要としたでしょう

また、墳丘の表面を葺く石材や、副葬品なども、多くの資源を費やして調達されたものです

このような巨大古墳を造営するためには、権力者が多くの人々を支配し、動かすことができなければなりませんでした

つまり、巨大古墳の存在は、権力者が強力な支配力を有していたことを示しています

具体的には、巨大古墳の造営は、次の点から、多くの人を動かす権力者の存在を示すと考えられます

  1. 巨大古墳の造営には、多くの人々の労働力が不可欠だった
  2. 巨大古墳の造営には、多くの資源の調達が必要だった
  3. 巨大古墳の造営は、複雑な技術や組織を必要とした

岩戸山古墳の概要:筑紫国造磐井が眠る

ここから、527年に起こった磐井の乱との関連で、九州地方の岩戸山古墳に着目します

岩戸山古墳は、福岡県八女市にある前方後円墳です

八女古墳群を構成する古墳の1つであり、国の史跡に指定されています

墳丘の規模は、全長約170メートル、前方部幅約130メートル、後円部径約100メートルで、九州北部最大級の前方後円墳です

墳丘は、粘土と砂を混ぜた土で築かれ、葺石は葺かれていません

1968年から1973年にかけて行われた発掘調査で、副葬品として、鉄剣、鉄刀、鉄鏃、鏡、勾玉、管玉、埴輪などが出土しました

これらの副葬品から、埋葬者は、6世紀初頭の有力な首長と考えられています

岩戸山古墳の埋葬者は、筑紫君磐井(つくしのきみいわい)という人物であるとされています

磐井は、6世紀初頭に九州北部で勢力を拡大した豪族であり、ヤマト王権に反乱を起こしたことでも知られています

岩戸山古墳は、九州北部における古代国家形成の過程を示す重要な遺跡です

また、その巨大な規模は、当時の権力者の強力な支配力を示しています

岩戸山古墳の特徴をまとめます

  1. 九州北部最大級の前方後円墳
  2. 6世紀初頭の有力な首長の墓と考えられている
  3. 埋葬者は筑紫君磐井であるとされている

527年 磐井の乱勃発

磐井の乱は、527年に九州北部で起こった反乱です

当時のヤマト王権は、朝鮮半島南部に進出するために、近江毛野率いる6万人の兵を任那(朝鮮半島南部にあったヤマト王権の勢力圏)に派遣しようとしていました

しかし、この計画を知った新羅は、筑紫国造の磐井に贈賄し、大和朝廷軍の妨害を要請しました

磐井は、新羅と結んで、大和朝廷軍の進軍を阻止するために、肥前・肥後両国に勢力を拡大し、朝鮮からの朝貢船を奪いました

これに対し、継体天皇は、物部麁鹿火を将軍とし、磐井を討つために九州に派遣しました

528年11月、物部麁鹿火は、磐井軍と筑紫の御井(現・福岡県三井郡)で激突し、磐井を討ち取りました

磐井の乱は、ヤマト王権の権威を回復するとともに、九州北部におけるヤマト王権の支配を強固なものにしました

詳細について謎の多い磐井の乱ですが、原因については、以下の2つの説が有力です

  1. 新羅との結びつきを強めて、九州北部における勢力を拡大しようとした磐井と、朝鮮半島における勢力拡大を目指すヤマト王権の対立
  2. 朝鮮半島への出兵に伴う軍役や負担への反発

いずれにしても、磐井の乱は、古墳時代後期におけるヤマト王権と地方豪族の力関係を示す重要な出来事と言えます

授業活動 磐井の乱の後も古墳が築造され続けたのはなぜ?

磐井の乱は、527年に磐井が継体天皇に反乱を起こし、敗北した事件です。磐井は敗北後、自害しました。

磐井の墓である岩戸山古墳は、磐井の乱の翌年から造られ始め、6世紀初頭に完成したと考えられています

つまり、磐井の乱が終わった後も古墳が築造され続けたことを意味しています」

ここで1つの疑問が生まれます

磐井の乱で敗北したにも関わらず、朝廷への反乱者・磐井の墓はなぜ亡くなった後も数十年築造され続けたのでしょうか?

①継体天皇が磐井の墓を作り続けることを認めた説

この説は、継体天皇が磐井の墓を作り続けることを認めたことで、福岡の人たちをコントロールしやすくなったと考えるものです

磐井は福岡の豪族であり、多くの支持者を持っていました

継体天皇は、磐井の墓を作り続けることで、磐井の支持者たちを懐柔し、福岡を支配下に置きやすくしたと考えられます

②継体天皇が岩戸山古墳を作り続けることを止められなかった説

この説は、磐井を支持する者が多く、磐井の死後もその権威を維持しようとしたことです

岩戸山古墳は、磐井の権力と権威を象徴するものであり、磐井を支持する者にとっては、その築造を続けることが、磐井の精神を継承し、その勢力を維持することにつながったと考えられます

もう1つは、ヤマト王権の地方支配がまだ十分に進んでいなかったことです

磐井の反乱は、ヤマト王権の地方支配に対する不満が背景にあったと考えられます

磐井の死後も、九州地方では、ヤマト王権への不満が根強く残っていたと考えられます

そのような状況下では、ヤマト王権が、磐井を支持する勢力を完全に制圧することは難しかったと考えられます

③継体天皇にばれないように、岩戸山古墳を作り続けた説

磐井は反逆者として行動を起こしていたため、死後磐井を支持するような風潮は許されなかったと考えられます

一部の磐井支持者が磐井への想いから、ばれないように作り続けたことは考えられます

磐井の反乱は、ヤマト王権への不満も一因と考えられています

そのため、磐井を支持する者にとっては、磐井の死後もその精神を継承し、ヤマト王権への抵抗を続けることが重要だったと考えられます

岩戸山古墳は、磐井の権威と精神を象徴するものであり、磐井の支持者にとっては、その存在を守ることが、ヤマト王権への抵抗の象徴となったと考えられます

岩戸山古墳は、磐井の権力と権威を象徴するものであり、継体天皇にとっては、その存在は、磐井の反乱を肯定することにつながるものでした

そのため、継体天皇は、磐井の死後も、岩戸山古墳の存在を許さなかったと考えられます

それゆえに、磐井の支持者たちがばれないように作り続けたと考える説です

具体的には、以下のような状況が考えられます。

  • 磐井の支持者は、岩戸山古墳の築造を、夜間や人目につかない場所でこっそりと行っていた
  • 岩戸山古墳の築造に必要な資材は、秘密裏に調達していた
  • 岩戸山古墳の築造に携わった者たちは、口止めされていた

このような状況下では、継体天皇は、岩戸山古墳の存在を完全に把握することは難しかったと考えられます

以上の3点を紹介した後、授業の終わりで生徒に以下のコメントシートを書いてもらいます

<参考文献>

『討論する歴史の授業1: シナリオ・プリント・方法』(田中龍彦著、地歴社、2014年) 

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