中2の歴史の授業では、荘園制度を学びます
中学に限らず、高校で日本史を選択した生徒にとっても難解な部分です
この記事では、初期荘園をどう説明すればわかりやすくなるか考察します

私有地の増加
飛鳥時代から奈良時代にかけ、農具の発達が進みました
農具が発達するのに伴い収穫量も増加し、食糧増産を背景に人口も増えました
689年に制定された班田収授の法※をもとに、農民には口分田を与えることになっていました
※班田収授:戸籍にもとづき、6歳以上の男女に口分田が与えられ、6年ごとに土地を回収する制度のこと
ただ、朝廷が困っていたのは、
- 重い税に耐えかねて浮浪・逃亡をする農民が増えてきたこと
- そして肝心の田地が少なかったこと
です
浮浪:戸籍に登録した地にはいないが、庸・調などの国税を納めている者
逃亡:行先が不明で、庸・調も納めない者
この状況を打開するため、朝廷は百万町歩開墾計画(722年)を打ち出します
百万町歩開墾計画:農民に食糧・道具を支給し、10日ずつ開墾に従事させ、良田100万町歩を開墾する計画
しかし、この計画は実現不可能でした
なぜか?当時の田地は(開墾済みの土地を含め)全国で計100万町歩程度だったのです
それと同じ面積を、というので実現するはずもありません
田地不足を解消しない限り、口分田から税を取る律令のきまりが守れません
朝廷は、新たな案を模索することになります
三世一身の法
当時は人口が増えているのに、口分田が足りていない状況でした
そこで、723年に朝廷は次のような決まりを発令しました
- 新しく用水路を作って開墾した者には、その広さの大小関係なく開墾した本人とその子・孫の三代まで私有を認める
- もとからある用水路を使って開墾した者には、その人1代限りの私有を認める
これを三世一身の法といいます
「自分の土地を持てるのであれば、開墾するものが増えるだろう」というのが朝廷の狙いでした
土地が増え、生産量が増えれば税として納めた後自分の手元に残る資産は増えるからです
一時的に開墾意欲に火がつく人もいた一方、この動きはすぐに止まりました
なぜか?
苦労して開墾してもいずれは国に返却するので、
回収期限が近づくと田地を整えることがばかばかしくなり、田地が荒廃したからです
これでは、開墾した土地がまた荒れ地に戻ってしまいます
朝廷は、新たな策を模索しました
墾田永年私財法
743年、朝廷は新たに墾田永年私財法を出します
- 開墾した田地は永久に私有して構わない
- ただし、開墾した田地も租税は納める
という内容により、朝廷が打ち出した「公地公民」の原則がくずれました
それでもこの策に踏み切ったのは
- 田地を私有にすることで生産意欲を刺激し、耕地面積が大きくなる
- 口分田の不足を補うことができる
というメリットがあったからです
農村の変化
律令ルールのもとでは、地方は国司―郡司―里長という仕組みでおさめていました
ところが、三世一身の法や墾田永年私財法が出されたことで、仕組みは大きく変わりました
変化①新しい支配者の登場
地方をまとめる力を持っていたのは、国司や郡司、里長でした
墾田永年私財法を機に各地で私有地・財産を増やして力をつけたものが現れます
具体的には、「私出挙」という借金の利息で富を増やす者がいました
私出挙:春に稲の種を貸し、秋の収穫時に利息とともに返してもらう
私出挙の利息の割合は、養老律令によって10割と決まっていました
100円借りたら、100円上乗せして200円で返却する、と言えばイメージがつくでしょうか
実際には、10割以上の返済を求めた有力農民も多かったと記録(『日本霊異記』)には残っています
また、私出挙の返済ができなかった場合返済のかわりに相手のために働く取り決めもありました

飲食店でお金を払えない時に、お皿を洗うようなイメージですね
この取り決めを使い、有力農民は開墾地をさらに広げます
貧しい農民はこうして有力農民の手下のようになり、明確な上下差(=格差)がついたと言えるでしょう
権力交代を望む者も現れた
有力農民の中には、地域をまとめる郡司にかわり「自分こそが郡司にふさわしい」
と郡司の地位を狙う者も現れました
自分(郡司)の立場を狙っているので、郡司にとっても不愉快です
奪おうとする者、それを防ぎたい者との間で争いが起こり、地域の政治が乱れていきました
変化②有力貴族・大寺院の勢力拡大
墾田永年私財法の影響はまだまだあります
墾田永年私財法は開墾を無制限に許可する決まりはありませんでしたた
例:最も高い身分の貴族は500町、庶民の場合には10町など
そこには、有力者の富強化を防ぐ狙いもあったと推測されます
ところが開墾制限は実際守られません
貴族や寺社は後に述べるやり方で、私有面積を拡大していきます
貴族や大寺社が持つ巨大な私有地を荘園と呼びます
東大寺などの大寺院は、広い土地を独占し、
国司や郡司の協力も得て、付近の農民や土地を捨てた者(浮浪人)に協力させ、開墾を行いました
国司や郡司が協力したのは、開墾地が広がるとその地から税を取れるからです
力のある貴族や寺社は放棄された口分田も開発し、私有地に取り込みました※
※放棄された口分田は「開墾地」には含まれません
貴族や寺社はこうして私有面積をさらに拡大できたのです

※浮浪人:口分田の耕作を放棄し、逃散した農民
奈良時代の荘園
繰り返しですが、奈良時代の荘園は税がかかります
ただ、実際には
- 身分の高い貴族や大寺院の荘園から税を集めるから税を回収するのが難しい(取り立てる役人は身分が高くない)
- 貴族はもともと位田・職田(ともに免税)などもらっているが、開墾した田地(課税対象)の土地も「これは位田(or職田)だ」と主張して税を払わない
ということが度々起こり、税を払わない荘園が次第に増えていきました
地方政治の乱れが深刻化~財産を増やすあらゆる手段~
740年代から、地方では火事が多発しました
倉庫(税として払われた米をしまっていた)が突然焼け落ちる事故が起こっていました

物騒な・・・
真相はこうでした
国司が倉庫にしまっていた米を焼ける前に別の場所に移しておき、
倉庫に火をつけていたのです
朝廷には「倉庫にしまっておいた米が不幸にも火事で焼失してしまったから納められない」
と報告し、本当は焼けていなかったお米を国司の財産としていたのです

あくどい・・・
他にも
- 雑徭(労役の義務)を利用費手、農民を勝手に使い、開墾地を増やして自分の私有地に取り込む
- 出挙で農民に貸した稲の利息をごまかして、自分のものにする
など、あらゆる手段で自分の資産を増やしました
結果
公地公民制の原則が崩れる
墾田永年私財法が出されたことにより、土地の私有を認めたので公地公民の原則は崩れました
ただ、新たな墾田も登録が必要です
朝廷は開墾地も支配下にある土地として確保できたので、政府の土地把握力は上がりました(今までは口分田のみ→口分田と墾田を掌握)
浮浪人の生活の場の保障
口分田から離れている以上、浮浪人は別の生活基盤をつくる必要がありました
貴族や寺社は新たに開墾地を増やす時、仕事を求める浮浪人を採用しています
結果、浮浪人は働く場を得て生活の糧を得ることができました
また、有力農民の中には浮浪人を組織しする者も現れたのです
地域社会の乱れ
税の負担に苦しむ貧しい農民や私有地を拡大し郡司や国司の地位を狙うような有力農民の登場など
力を持った者同士が争いあう社会に変貌し、政治が乱れていきました
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